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TOP PAGE > YWCAについて > ニュースレター > アーカイブ一覧 > ニュースレター16.2月特別号
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大阪YWCA機関紙(2016年2月特別号) アーカイブ一覧へ
大阪YWCAでは機関紙を年8回発行しています。
抜粋して内容をご紹介します。
「人はみな平等」女性解放の先達・広岡浅子

「人はみな平等」 女性解放の先達・広岡浅子

 NHK連続テレビ小説『あさが来た』のヒロイン・あさは、幕末から明治、大正と激動の時代を生きた実業家・広岡浅子(戸籍上は廣岡淺)をモデルに描かれています。富豪三井家の娘で、炭鉱開発、銀行、保険会社、朝鮮での農場経営など、企業家の側面がクローズアップされていますが、浅子の生涯でもう一つ特筆すべき点は、キリスト教信仰に根ざした女性解放運動への献身です。
 座右の銘は『九転び十起き』。およそ百年前、大阪YWCAの創立準備委員長としての重責を担った広岡浅子の心に、浅子が語ったことばや書き残した文書を通して触れてみたいと思います。

女子といえども人間である

 1849(嘉永2)年10月、京都で生まれた浅子は、豪商三井越後屋のお嬢様として蝶よ花よと育てられますが、裁縫、茶の湯、琴の稽古などといった花嫁修業には全く興味がなく、むしろ男兄弟達が習っている四書五経の素読に耳を傾けては学問に非常な興味を持つようになりました。しかし「女に学問は不要だ」と遠ざけられ、さらに13歳の頃には読書を一切禁ずると申し渡される始末。しかし禁じられればなおさら反発、「女子といえども人間である。学問の必要がないという道理は無い、かつ学べば必ず習得できる頭脳があるのだから、どうかして学びたいものだ」と考えていました。
 17歳の春、幼少時より許嫁(いいなずけ)と決められていた大阪の廣岡家に嫁ぐことになり、「女子を器物同様に親の手から夫の手に渡すということは、何という不当なことであろう」と、何事も人に運命を作られてゆく女の哀れな境遇を、いっそう痛切に感じる浅子。結婚してみれば夫は家業には関与せず万事支配人任せで、自らは日毎、謡曲、茶の湯等の遊興にふけっているという有様。「これでは永久に家業が繁昌するかどうか疑わしい、私がなんとか…」と意を決し、簿記や算術など商売に必要な知識を、睡眠時間を割いて独学で納めるのでした

実業家から女子教育へ

 数えで20歳の時、維新の変革に遭遇、大阪一般の富豪は大きな困難に直面しますが、浅子は「かねて危急の場合に備えたはこの時」とばかり実業界に身を投じ、以来、鉱山経営に銀行経営にと、家業の加島屋を盛り立てます。しかし実質は経営者であっても、当時の民法で女性は法的に無力で、浅子の名前が公になることはありませんでした。このように、日本の女性が常に屈従の生涯を送っていることについて、浅子は大いに嘆き、なんとかしてその地位を高めなければならない、「それにはまずこの蒙昧(もうまい)なる婦人の頭脳を開拓しなければならない」と考えるのでした。

 女子教育の必要性を説く成瀬仁蔵との出会いは、そんな浅子の女子高等教育への情熱を一気に花開かせることになります。日本女子大学校の創立発起人となり、多額の寄付をしただけでなく、政財界の有力者に女子大学創立の趣旨を説き協力を求めたのです。伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一といった錚々(そうそう)たるメンバーが発起人に名を連ね、1901(明治34)年、日本初の女子高等教育機関として日本女子大学校(現、日本女子大学)が開校しました。

キリスト教との出会い
 ちょうど還暦を迎えた年、浅子の精神生活に一大革命を与える機会が訪れます。乳がんの摘出手術を受けることになったのです。手術が終わり目覚めたときの感覚を「私はこの時『天はなお何をかせよと自分に命を貸したのであろう』と感じて、嬉しいと言うよりは非常に責任の重いことを悟りました。その後私は万事を全く天に任せたその刹那に感じた偉大な力を再び味わいたいと試みつつ、あるいはこれが人のいう神ではなかろうかと、絶えず憧憬(しょうけい)しておりました」と書いています。
 その年の暮れ、偶然大阪基督(きりすと)教会の宮川経輝牧師に会う機会があり、その指導を受けることになりました。宗教哲学から始めて毎週2回講義を聴き学ぶ内に、我が身の傲慢なことが解り、今までの生涯が恥ずかしくも馬鹿らしくも思われ、改悔の念に堪えなくなったといいます。
YWCAに望みを託して

 1911(明治44)年の夏、浅子は、日本基督教女子青年会(以後日本YWCA)が青年女子のため神奈川県鵠(くげ)沼(ぬま)で開催した1週間の修養会に講師として参加、そこで社会事業家としても知られていた山室軍平牧師に出会います。彼は宮川牧師と共に浅子の信仰の師となり、ついにこの年、浅子63歳のクリスマスに宮川牧師より洗礼を受け、周囲の人たちを仰天させました。長い間いろいろな宗教を研究した結果、伝統と古くさい法制度に縛られている日本の女性を解放する希望を与えてくれるのはキリスト教以外にない、との結論に達したのです。そして「更正の浅子は、一層社会のため、神の福音を広める責任を自覚し、残る生涯は霊肉共に神にお任せする決心で、言い知れぬ平和と喜びに満たされておりました」と記しています。この後、浅子の活動の場は、女子大学校から女子青年会(YWCA)へと移っていきます。
 翌1912年、浅子は津田梅子とともに日本YWCAの中央委員となり、その夏の夏期修養会で「キリスト教と女性問題」と題する開会講演を行いました。228名の参加者を前に「イエス様は性による差別を一切なさいませんでした。ですから、私たち女はすべて男と同様に神さまの子どもです」と述べ、神の前で人はみな平等であること、キリストに学ぶ生き方こそが真に女性を解放するものであることを力強く説きました。

  やがて大阪にもYWCAを創ろうとの気運が高まり、1917(大正6)年準備委員会が発足、その委員長を務めたのが広岡浅子です。東洋一の商工業都市として栄えていた大阪には地方から出てきた若年女子勤労者も多く、働く女性を巡る課題が山積していたのです。
 1918(大正7)年4月27日、天王寺公会堂に約800名の若い女性を集めて、大阪基督教女子青年会大会が開かれました。日本YWCA総幹事の河井道子(恵泉女学園創立者)と広岡浅子が講演、これが実質的な大阪YWCAの発会式となりました。
  翌年1月14日、東京麻布材木町の別邸で浅子は亡くなりました。71歳でした。東京と大阪で行われた葬儀には、合わせて2200名が参列。翌2月大阪YWCAでも追悼礼拝がもたれましたが、これが大阪Y創立後初めての大きな集会となりました。浅子の遺志は今も大阪の地で生き続けています。

(編集部)
[参考文献]
  ◆広岡浅子著『一週一信』
 ◆日本YWCA機関誌『明治の女子』『女子青年界』
 ◆M・プラング著、鳥海百合子訳 『東京の白い天使』
 ◆大阪YWCA50年史『年輪』
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