しなやかに飄々と ■人とつながって意味のある仕事をしたいと思っている女性、国際的な活動や仕事に関わりをもちたいと思っている女性が増えています。
私は、いわゆるアラカン、団塊の世代です。社会全体が貧しい中で育ちました。まだまだ自分で意識して努力すれば自分の進路は選択できるという、そういう希望はあった時代です。ハングリーだったから、ハングリーな中で何かをしていく、見つけようとしていくのは大変だったけど、今の人の大変さに比べたら簡単です。
今の社会状況の中で、独り立ちして意味のある人生を見つけるのに必要なのは、ハングリー精神ではなくて例えばストイックな精神です。それをもつのはものすごく難しいことです。
今の人たちのしんどさについて、本当に大変だなって思うけど、その中で、6対4で女性の方がしなやかな方々が多いような気がしますね。私たちみたいにまず生活していくだけの経済的なこととかで必死にならず、もうちょっと広い意味で道を見つけていく人たちがいて、そういう人たちは眩しいなって思います。いろんな価値観をもって、人目を気にせず肩の力を抜いて飄々としている素敵な若い世代を、いろんな地域で見て素敵だなって。
■ドイツに留学経験がおありで
70年代の終わりに2年ほど、夫と子どもと5人で留学しました。当時のドイツは、出稼ぎ労働者を一方で必要としながら持て余し始めていた時期。そういうトルコやギリシャの人と子どもを通じて親しくなって、彼らの思いとかを聞いて、なるほどねぇという感じで、でもまぁ人ごととして耳を傾けていました。帰国してしばらくしたら、日本が外国からの労働者でそういう状況になってきて、ギリシャの出稼ぎの家族なんかの心に自分の思いを重ね合わせていたことがよみがえって、やっぱり人ごととは思えない。難民の方々がどんなに心細いだろうとか、語学力の問題でギクシャクする時の情けなさとか、人ごとではなくなりましたね。
「平和の話、私結構です」
■井上ひさしさんらと『平和アピール7人委員会』の活動もされています。
団塊から上の方々は、「若い人たちに平和って言っても逃げられちゃう、引かれてしまう」っておっしゃいます。確かにそうなんですけれども、「平和の話、私結構です」みたいな若者は、私たちが一生懸命手塩にかけて育ててきた成果だと思うんです。「戦争? それって私たちが戦場に行かなきゃなんなかったりするんでしょ? 死ぬかもしんないんでしょ? 死ぬの嫌だし、そういうのはいいです」なんていう若者ばっかりなんでしょ。戦争をしたがっている人たちは憂えているわけですが、戦争なんかしてはいけないと思っている私たちは憂う必要はないのです。
平和とは、目に見えない空気のような安全
平和とは、実はこの社会の治安の良さそのものなのです。アーチャー教授というカリフォルニア大学の比較犯罪学者によると、その国が戦争を起こすと殺人事件をはじめとして犯罪一般が急に増える。それは戦争が終わってからゆっくりと減っていく。日本は先進国の中で際立って殺人も犯罪も少ない、これは日本社会の成功物語であるって言っています。アメリカは第二次世界大戦以降、ベトナム戦争をはじめとしてずっと戦争をしていて、そして犯罪大国、殺人大国です。平和っていうのは目に見えない空気のような「安全」で、私たちの日常生活を守っている。これだけ安全な社会に暮らしている先進国の市民は私たちだけかもしれない、世界を見ても歴史を見ても。それを知らないで、「最近物騒ね、嫌ね」みたいなことで踊らされ、治安を守るためにはああしなければ、こうしなければと自由を奪われ、治安が悪いのはアルカイダのせいとかテロの脅威とかそういうことに踊らされて、知らないうちに戦争に巻き込まれることがないようにということを、若い人に言いたい。「戦争の話、私いいです」というのはウェルカム。ただちょっと踏み込んで知ってほしい。
私たちが不安であることは確か。でもそれは、この先この社会どうなるんだろうとか、自分の年金どうなるんだろうとか、そういう本当の不安です。センセーショナルな犯罪が洪水のように報道され、そこに私たちの不安を集約するような動きが気になります。不安の原因をすり替えられ、当然の不安から目をそらされて冷静に考える機会を奪われたり、不安を利用されたりしないように、この不安をきちっと見据えることも必要じゃないかな。
■憲法9条を守る活動もしてこられました。
民主党連立政権を、私は「政権交代政権」として支持しますが、民主党が改憲を掲げているということは絶対に忘れちゃいけない。
私たちは、政権の行方にコミットしていく責任がある、ボールは私たちの方にあるんだという、そういう政治リテラシーを広めることが大切と思いますね。
■ディベートとか、議論をする文化はなかったですね
『ピサ(国際学力テスト)』で、日本の子どもの学力はトップレベルにあると分析されています。ですから学力が落ちた落ちたというのは嘘なのですが、読解力だけは14位なんですね。それは、対立する二つの意見を読んで、自分が賛成する方の意見になぜ賛成するかを書きなさいという問題、つまりディベートなんですね。そんな訓練はしていないので、日本の子どもがいい点とれないのは当然です。それを大人たちは下がった下がったと子どもの悪口を言うけど、わたしたち大人だってきちんとした議論は苦手でしょう?
自分の意見を展開し、一方で相手の意見に耳を傾けるという習慣を、大人も子どもも身につけなければ。コミュニケーション能力ですね。
言い負かすのではなく
相手を言い負かすとか、そういうことではないんです。論理的なあるいは情緒的な落とし所がこの相手とはどこにあるんだろということを探る技術です。意見が違った場合の切り札は、いいかげんなところで切り上げること。それで、「またこのお話しましょうね」って頑張って言ってください。そうすると、お互い離れて冷静になって、「なんであの人あんなこと言うのかしら」ってちょっと考えるんですね。意見が一致することよりも、お互いにあの人どうしてああ言ったのかしらと考え合うことの方が大切だということです。エネルギーを無駄に使わないためのテクニック。それは相手の身になって考えるという、古来言われていることでもあるんですが。
■どうしても負けたくないと思ってしまうんですよね、男性に。
駄目なものは駄目と言いつつ、エネルギーを温存しつつ、ですね。闘いは長いんだから。今の若い人の方が上手にしなやかに対応してるかも。
■幼児期から平等教育を受けてきた女性が、就職で急に「差」に直面する。今の社会状況の中で悩む女性へのひと言を
見切りつけることですね。見切りつけてる人が、しなやかに、何か見つけているという感じ、しません?
見切りをつけて、しなやかに
■妙に社会的評価とかを期待せず、周りの目とかじゃなくて?
今は少しは改善しているとは思うけど、たとえばマスメディアの採用試験。ペーパーテストで採ると10人中9人が女性になっちゃうんですって。それを逆転させる「逆クォータ制」みたいなことが何十年と続いてきて、そういうところにカチンときちゃう若い女性たちがそこで心が折れてしまうというのは本当に見るに忍びないし、もうそんなところは見切りをつけろって。
地方新聞出身で大きな仕事をしてる女性ジャーナリストがいますが、彼女も大手新聞社を受けて落っこってるに決まってますよ。その人の背後には、100人、200人の優秀な女性、就職試験のときに彼女と遜色ないぐらいの実力があるけど、大手メディアには入れなかった女性がいっぱいいるわけ。
■海外協力に携わりたいという女性に対してはどうですか?
あんまり思いつめちゃったりするのは良くないんですよね。わぁ、この刺繍きれいっていう、そういうノリが大切と思うんです。現実に行ってみたら、可哀想な惨めな人なんか全然いなくて、本当に魅力的な、尊敬すべき人々に感動をもらってくるわけです。
慎重になってもらいたい面もある。慎重に、本当に自分の素直な気持ちがそっちに行っているのか。大変な状況で力を尽くすということが自分の素直な気持ちに沿っているんだっていう、義務感や使命感ではなく、それを上回る自分の素直な気持ちっていうものを確かめてほしいと思います。「自分が安定的でなければ、人の心に安らぎなんかもたらせないんじゃないの?」と言いたくなっちゃうときがあります。実際にやっている人は、たいてい飄々としてますよね。
■現場を見るためにとりあえず行くというのは?
そこは慎重にならなくてもいいですか?
いいと思います。軽いノリで行った人の方が、血だらけの子どもをサクサク運んでいたりして、すごい使命感で行った人はすさまじい現実を目の当たりにするともう石になっちゃって、という話も聞きます。
■日本のNGOについては?
すごく力をつけてきているし、政策提言能力もあって、わぁ、素敵だ!と思います。今回の政権で大臣になったような人の中にも、野党時代にずっといろいろな分野のNGOと一緒にやってきた人たちがいます。だから今度は自民党だって野党になったんだから、もっとNGOと連携していかなければ。
日本のNGOの問題は資金。あと一桁足りないですよ。日本に寄付の文化がないとか言うけど、そんなことありません。「心臓移植の必要な○○ちゃんを助けよう」というようなところにはお金が集まる。あんな1億も2億もあれば、イラクの子どもが何人助けられるかと思って、私すごく複雑なんです。でも、それが自分の知り合いのお子さんだったら、とも考える。答えは出ませんね。
■傍の人には親切だけど、自分に関係ない人には冷たいと
これまでの地域の地縁・血縁のつながりやコミュニケーション、絆っていうものは再生しない。そういうものを再生させようというのは無駄な努力だと思うけれど、共感による新しいきずな、そういうものはみんな求めている。だから外国の子どもだって病気のための募金というと結構集まったりしますよね。随分前ですが、サハリンの男の子が火傷したらみんなで助けるとか、私たち、そういうことしたい動物じゃないですか。
そういう共感による絆みたいなものが自由にいつでも生まれるような社会になるといいんですよね。何か工夫が、きっと鍵があると思うんです。ミクシイが普及したのも、ツイッターが流行る兆しを見せているのも、きっと根っこは同じだと思います。
伝統と保守主義
■『100人村』原案者のドネラ・メドウズさんが、「幸せの5つの条件」の5番めに「伝統文化」を挙げています。
伝統と言うときに何を指すか。伝統文化というのは、例えば先住民だったらそれが自分たちの尊厳や抵抗や独立のよすがになります。でも、国全体の伝統文化とか言い出すと、それはいんちきなのね。よすがになる伝統文化っていうのはものすっごく狭いものだったりするんです。「私、真正保守主義者よ」って言いふらしています。保守主義者っていうのは、日本の場合はお上の言うことに間違いはない、アメリカに楯突くなんてとんでもないっていうのが保守主義みたいだけど、本来は全く逆で、自分が属しているコミュニティのためならば、いつでも国家に弓を引く覚悟があるのが保守主義者です。だから、例えば今だったら祝島[山口/原発立地]とか辺野古[沖縄/米軍基地移設]でやっている人が保守主義者。何よりも自分の身近なものを大切にする。伝統文化と言った時に、たとえば天皇制や日の丸・君が代を連想する人は偽物ですね。
江戸期の女性に学ぶ
私も、教育は日本の伝統に戻るべきだって言うんです。どういう伝統かというと、江戸時代の寺子屋。江戸以外の地方にもすごくたくさん寺子屋があって、先生は都市部以外は女性の方が多かったんです。先生は子どもを怒らず、罰と言えば机の上に立たせるくらい。立たされた子はおもしろそうにみんながやっていることを眺めている。それで一人ひとりが個別カリキュラムなんです。
先生の日記が残っていて、どうしようもない男の子がいて、辞めてくれればいいのに好きだから来るんだけども、乱暴狼藉して全然勉強しないでまた帰って行く。「師匠の不運なり」って書いてあるのね。なんか、いいでしょ。しかも、それでもって近世の識字率は世界一だったんですよ。普通の労働している人達が詩を詠んでいる、みんなが詩人だったっていうんで、幕末に来たヨーロッパ人はびっくりした。びっくりした1つに男が子育てをする。朝、仕事に行く前の職人達が自分の赤子を皆でしゃがみこんで自慢し合っている。確かに、錦絵とかの日本橋の賑わいとか群衆を見ると、小さい子の手を引いた、あるいは肩車した漫画の『浮浪(はぐれ)雲(ぐも)』みたいな男の人がいっぱいいるんですよ。乳離れしたら、子育ては男のやることだった。そして、ヨーロッパ人たちがビックリしたのが、日本人は子どもを怒らない、体罰なんてとんでもない。じっくり諭している。そして子どもたちは清潔で大人達が働いているところをちょこまかしているけれども、お行儀がよくって、これは素晴らしい。「教鞭」という言葉は翻訳語。日本にはなかった。動物なんだから叩き込むというのが向こうでしょ。でもそうじゃないからビックリして、帰ると講演とかをして、それが広まって、「新教育」というのが北欧で考え出されたんじゃないか。それが大正時代の自由主義の風潮で日本に逆輸入されたんじゃないか。体罰なしの教育なんて、ヨーロッパにはない発想なんです。だからその江戸時代に戻れ!と。
伝統文化と言う時に、明治、特に日露戦争以降から1945年までを伝統だと言い立てる人、伝統とはそこだと思い込んでいる人は、ヘタレです。
■伝統を強調されると、女性には不利な印象もあります。伝統文化素敵だなって思っても素直になれない部分もあって・・。
たとえば学者さんって、養子縁組とかすごいでしょ。あれは、藩のお抱え医は家業だから、例えば長男が向いていないとしたらそれに継がせるわけにいかない。一族郎党の生活かかってるから。だからさっさと廃嫡[相続人としての地位を解くこと]したり、どこそこにできのいいのがいるよって聞いたらその子を跡継ぎにもってきたり、娘の婿にしたりして家業をとにかく続けるんですね。それは武家でもそうで、不始末したら切腹になって家族は路頭に迷う。だから、跡継ぎの資質はものすごく重要なんです、家業ですから。ですから、家系を辿っていくと、血の繋がりからすれば女系だったり、それすら途中で繋がっていなかったりする。幕末の蘭学や洋学の家の系譜を調べたことがあるんですけど、そこに働いているのは女たちの意志だっていう感じ。その家の大奥様とかが相談して養子に嫁を取らせ、家業を続けている。
近代です、男が威張り始めたのは。なぜかといえば、近代は国民皆兵。「皆」といっても男だけ。つまり兵隊になれる市民が一等市民で、兵隊になれない市民が二等市民、女性とか障がいをもった人とか。そこで男が威張り始めた。でも男の命が軽くなったのも近代なんです。羽毛のように軽く。
男はおだてられているだけで、命が軽くなったのが近代。江戸時代の三行半(みくだりはん)だって、女の側が男から奪い取るものだった。三行半は「お前とは離縁する」と男が言い渡すものじゃないんです。あの男は見込みがないというと、女側の親とか親戚とか仲人の人達が踏み込んで無理矢理書かせるんです、男に。そこに何が書いてるかというと、「私はもう、この女が他の人と縁づいても文句言いません」って書いてある。それで、その三行半を持っていると女の値打ちは上がったんです。なぜかというと、即戦力だから。味噌作るにしても、梅干し作るにしても。三行半は、江戸時代の町衆の風俗習慣のほんとうの意味に、近代になって逆の解釈がほどこされている。世間のイメージとは全然逆なんです。
■作られてしまったイメージは、なかなか覆せませんね。
どの時代も、直前の時代の悪口を言いながら自分の正当性を確立しようとするわけです。だから、江戸時代は明治時代から散々暗黒の時代のように言われ、戦後は戦前を暗黒のように言うと同時に、江戸時代を暗黒のように言うということでも繋がっているわけなんですね。世界はどんどんよくなるという、進歩史観はそろそろ卒業しないと。江戸時代はおもしろいと思いますよ。
私、拠って立つのは民俗学なんですよね、昔話を勉強しているわけだから。そうするとね、女は強いわ。すごいです。ただ女は死にやすかった。女の方が寿命が短かった。終戦直後までは。
■お産とか?
そう、お産です。お産の出血多量とか、今だったら輸血でどうってことない事故でも、すぐ死んじゃう。で、子どももよく死ぬでしょ。そうすると、昔の人だって悲しいんだけど毎日働かなきゃいけないじゃないですか。だからどっかで気持ちの切り替えをしなきゃいけない、それを楽にするために「女、子ども」っていうふうに死にやすい女性や子どもの命や人権を軽んじる、悲しい心のトレーニングをしていた。子どもはまた作ればいいんだ、女房はまたもらえばいいんだと。単純に下に見ていたのではなくて、複雑なんですよ。今「女、子ども」なんて言うと、もう睨まれちゃう。日本の女は世界一死ににくいからね。途上国では、まだまだ女や子どもは後回し、「女、子ども」という差別が生きています。それをなくすには、女性や子どもが少しでも死ににくくなればいいんです。ですから、途上国でのリプロダクティブケアや啓蒙は重要です。
■若い女性の生き方へのアドバイスを
なんで女性だけがいまだに家庭と仕事の両立とか言ってなきゃなんないかっていうのは、本当に腹立たしいですよね。今度の政権交代で例えば夫婦別姓とかね、形、シンボル的なものでも少しずつでも、早く変えなきゃいけない。男に、介護か仕事かとか悩んで欲しいですよね。
■景気が悪くて男性も働かされすぎてという面もあるでしょうが、介護や育児の最終的なしわ寄せは女性にくる。
これこそ、当事者には全く責任のないことでね、それで少子化だとか、今の若い女は身勝手でとか、すごいバッシングですよ。インターネットの世界でも。
都合のいい時だけ、仕事に動員しておいて、景気が悪くなったらもういらないとか、本当に私たちの世代でそういうのはもう終わって欲しいと思う。この不況をいい方向に、公正なワークシェアリングを導入したオランダのように使えばいいのに、悪い方向に使おうという勢力の方が目立つ。私たちの力不足と言うことになりますね。私たち自身の政治の問題。しっかり声をあげ、わあわあ、騒いでいきましょうよ。
大阪YWCAニュースレター2月特別号
|