“これまで投票日になると異邦人のような感じがしてさびしかったが、今日はとてもうれしい”
これは、2002年3月31日、全国ではじめて外国人に住民投票を認めた米原町(滋賀県)で投票を行った74歳になる在日1世の女性が語った言葉です。1人の住民として1票を投じるという行為は、その人が自らの意思を公的に行使し、その行為に責任を持つという重い行為で、その意味するところは本当に大きいです。
1票の重さを思う時、1999年の東チモールでの国民投票を思い出します。あの時、インドネシアから独立するかどうかを決める投票でしたが、住民たちはインドネシアの軍や民兵たちに独立に反対するように脅され、命の危険を感じるほどの圧迫の中に置かれていました。投票の当日、世界中がどうなるのかを見守る中、これまでの脅迫にも関わらず、まだ暗いうちから人々は何時
間もかけてぞくぞくと投票所に向かい、98.2%という大変な投票率で、しかもその中の78.5%の賛成で独立を勝ち取ったのでした。ただ、その後で民兵によるむごい虐殺が始まりましたが・・。
命をかけて自分たちの意思表示をする。それは単に自分の希望だけではなく、自分のこどもたち、そして何世代にもわたる未来のこどもたちのために良い状況を残さなければという責任ある主体としての行為、文字通り命をかけた意思表示だったのです。事柄の軽重はあるとしても、投票にはそのような重さがあります。
一方、日本では参政権の重要さについての認識はあまりなく、どの選挙でも共通する投票率の低さには恥じ入るばかりです。日本におけるこの意識の低さが外国人住民の参政権を軽く考え、また、外国人に対する“作られた偏見”に簡単に流されていることにつながっているのではないでしょうか。
共に生きるということは、単に歓迎する、一緒に何かをする、ということにとどまるだけでは不十分です。この社会(地域)をどのようにしていくかを自分の問題として考え、それを一緒に決定していくプロセスに参加できて初めて正式なメンバーとしての住民になれるのです。法改正を待たずとも、まず私たちの生活の小さな決定の場からはじめていきたいものです。
松浦悟郎(まつうら・ごろう)(カトリック大阪大司教区補佐司教、カトリック難民移住移動者委員会委員長)
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