30代半ばで都市生活に終止符を打ち、山形県の農村で暮らすようになって20年が経とうとしている。図らずも百姓の端くれとなったのには、今暮らしている町の環境と農に生きる仲間との出会いがある。1年の半分は雪に埋もれ、作物を育てるのに最良とは言えない場所でありながら、ここには自然と格闘し生きるための糧を創造してきた豊かな歴史が刻まれている。山に囲まれ、耕地面積も少ない白鷹(しらたか)町は、米作りと古くは養蚕、現在は野菜や果樹栽培などを組み合わせた小規模複合農業が一般的で、どの家もかつては自給的農業で暮らしていた。夫の家族も代々続いた農家で、義母は蚕を育て機を織る一方で、家族の食べる野菜や豆を育て、漬物を漬け、味噌や納豆を作っていた。70年代に入り、工業化が進み、農民が急速に減少する。残った農民は機械化と農薬の導入で効率を上げ、規模拡大を進めた。冬は都会に出稼ぎに行った。
そうした中、国の減反政策に異を唱え、農薬の空中散布に反対の声を上げる農民がいた。国の政策に翻弄されず、農民として生きたい、農で生計を立てたいと有機農業を実践し、自前の農産物を原料として加工し、出稼ぎに代わる仕事を創り出した。40歳になったとき私はこの先輩たちに弟子入りした。「四十の手習い」である。体力は衰えていくのに毎春「今年は何を撒こうか」と種苗会社のカタログを楽しそうに見入る義母の姿に背中を押された気もする。
種まきから収穫まで自分の采配でやりこなす農業は、しんどくてもやり甲斐がある。体力に合わせて作物や収量を考えて栽培すれば老後も続けられる。(「農業人口の高齢化」の裏を返せば、高齢者でも続けられる仕事でもあるわけだ。)収穫の日に台風が来たら「自然が相手では仕方ない」と怒りはおこらない。農作業は疎外されない労働だ。
50になった4年前、仲間11人で「しらたかノラの会」を立ち上げた。有機農業をしながら、その原材料で漬物、惣菜、菓子、餅等を加工する農民集団だ。味噌や梅干、ご飯の素、ケーキやジャムなど開発した製品は100を超えた。地元に受け継がれる農の女たちの技を身につけることが私の「五十の手習い」となった。
過去20年で農業就業人口は半減し、耕作放棄地は倍増した。主力を担ってきた昭和一桁世代の離農が進めば、日本の農業の存続自体が危うい。命を育て食べ物を作り出す基本的産業の担い手が絶滅危惧種となりつつある社会に未来はない。未来を創り出すには担い手を増やすしかないが、「農を担う」ことがきつい・汚い・危険の3Kとは限らない。私のような遅ればせの新規就農で、半農半加工の兼業でやり甲斐を見出す場合もあれば、都会で自給の野菜づくり(プランターでも)だってできる。固定的な農業観を捨て、現在の居場所から農に向かう道筋を皆が探るようになれば、新しい様々な「担い手」が生まれる。そうした想像力と行動力が今、必要とされている。
疋田 美津子(ひきた みつこ) (しらたかノラの会/アジアと日本の農と食をつなぐNPO法人APLA共同代表)
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