大阪YWCAは、女性のエンパワメント、子育て支援、またNGO/NPOリーダーの育成、国際交流等の社会貢献活動をしています。

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大阪YWCA機関紙(2009年3月号) アーカイブ一覧へ
大阪YWCAでは機関紙を年9回(4/5、12/1、8/9月が合併号)毎月1日発行しています。
抜粋して内容をご紹介します。
臨床コミュニケーション〜苦しみの声に触れるために〜
大阪YWCA90年の歩みを築いた先輩たちG
名コンビ3「岡野時江/越智清香」
大阪YWCA千里40周年
シャロン千里は10年めに入りました!
YWの窓 今、あらためてパレスチナ問題 Q&A
専門学校あれこれ 日本語教師養成講座〜専門家の道を歩む修了生〜

臨床コミュニケーション〜苦しみの声に触れるために〜

 臨床ということばのイメージには、白い病室がつきまとうところがあります。傷つき、病み、疲れたひとが苦悶と喘ぎのなかで横たわっている。そこへ治療や看護を役割とする白衣の人が現れるという構図です。このような臨床のイメージは、医療に対する期待と病苦への恐れが相まって複雑な印象をわたしたちに与えます。自分が身を置くには恐ろしいけれども、ときには、どうしても必要な救いの場。臨床といえば、専門家にだけ立ち入ることが許された特別な領域と考える人も多いでしょうが、それは臨床に対する狭い見方だとも言えます。
 臨床(クリニック)ということばの語源になるのは、ギリシャ語で病床を意味する「クリニコス」または、もたれ掛かるという意味の「クリナイン」だと言われています。クリニコスは最期の時を迎えたひとが語ることばを聴く場面でもあります。クリナインは我が身を病床に傾けて微かになった声を聴き取ろうとする姿勢とも考えられます。臨床ということばの古層に立ち返れば、臨床とは苦しみにある人の声に触れようとして身を傾ける姿勢を意味するのです。
 ひとは母の産みの苦しみに付き添われて、この世に生を受けます。そしてひとの間で命をはぐくまれ、ひとびとの喜びや苦しみの狭間に生をつないでいきます。ひとはひとの苦しみと出会うことを抜きにして生きることはできないのです。この意味では臨床は誰もが身を置かざるを得ない関係の場です。
 さて、臨床コミュニケーションについて、何が大切なのでしょうか。コミュニケーションには、さまざまな技術がありますが、臨床コミュニケーションにおいて何よりも重要なことは、苦しみにある人と出会い、その場に共にいること、そして耳を澄ますことではないでしょうか。何をどう話すかは、その後に起きてくる出来事であり出発点ではないのです。このことを私は蕪村の句から教えられました。
 「看病の耳に更けゆくおどりかな」という句です。看病する人の前に横たわる病人。外の世界とは隔絶された狭い病室で、二人は時の流れを共にしています。元気であれば出かけていったはずの祭りの踊りの音も、夜が更けていくのと同時に微かになっていきます。この句には病人のことばはありません。しかし、病人の苦しみの上に、悔しさや悲しさを波立たせる踊りの音を、口数少ない看病のひとも聞いています。二人はことばを交わさずに同じ世界に生きているのです。これが臨床のはじまりの姿ではないでしょうか。

西川 勝(大阪大学コミュニケーションデザインセンター特任准教授)

大阪YWCA90年の歩みを築いた先輩たちG 名コンビ3「岡野時江/越智清香」

 岡野は、70〜80年代に会員部の多くのプログラムの企画に携わり、斬新なアイデアで推進の中心にいた。岡野の考え出すプログラムに豊かさ、楽しさを加えてワンランク上の内容に仕上げて行ったのが越智であった。中でも、今年30年を迎える俳句会(大阪YWCA春潮会)の生みの親・岡野、それを成功させた育ての親・越智。俳句会初期に支えた越智の力は大きかった。ここにお二人の早春の句を披露して、このコーナの締めくくりとしたい。

 雛の夜に合わせて母は娘の家に 時江
 ふくらめる梅の蕾をつつむ雪 清香


紙面でご紹介できなかった多くの先輩方については、ぜひ大阪YWCA90周年記念誌「YWCAと私」をご一読ください。次号からは「ここにYあり」が始まります。

大阪YWCA千里40周年

 1969年大阪YWCAは、創立50周年記念事業として、開発されたばかりの千里ニュータウンに千里センターを建設した。ニュータウンという団地の、ともすれば閉鎖的になりがちな地域の中に新しい人間関係をつくり、そこに住む人々と共に学び働く場をつくろうとの願いを込めて、会員の総力をあげて活動を開始した千里も40年の節目を迎える。

*     *     * 

 千里センターがもう40周年、光陰矢の如し、設立間もないピカピカのセンターに通った日々が思い出されます!
 大阪YWCA50周年記念事業として、千里ニュータウンにブランチをという夢と希望を祈りと行動によって実現された先輩諸姉のお働きに敬意と賞讃を捧げます。
 多くの困難を乗り越えての「子ども図書室」の開館、午後2時、貸し出し机の前には長蛇の列ができたことを思い出します。
 三歳児保育「こひつじ」は子どもの心を大切にする図書室の延長線から、自我が芽生える3歳児に焦点を当て始められました。陽光の降りそそぐ中庭のクスノキもいつの間にやら根を張り枝を広げ、元気な子ども達を想わせました。20余年も継続できたことは感謝でした。
 当初、2階にはホステルがあって、外国の方の長期滞在や循環器病センターに長期入院の子どもに付き添う家族の支えの場ともなりました。
国際交流プログラムでは「ガーナの夕べ」「エジプトの夕べ」「メキシコの夕べ」など留学生をスピーカーに迎え交流のひとときを持ち、ロビーでの楽しい立食パーティーでの時の過ぎるのも忘れるほどでした。料理は会員の手づくりでした。
 財政を支える教育事業の最初はリズム体操、英会話、児童英語からの出発で、洋裁、料理、洋菓子などの成人クラスに加え、ピアノ、バイオリン、絵画と次々にクラスが誕生し、発表会やオープンクラスで賑わいました。中学生英語の修了者を引率してのイギリスホームステイもよい経験が出来た楽しいプログラムでした。初夏の中庭でのバザーの賑わいの声が聞こえてくるようです。30年の時を経て、若者の街にもいつしか高齢化の波が押し寄せ、次のステップへの決断の時がやって来ました。私たちは先達に倣い「総合福祉施設シャロン千里」への建て替えを決断し、そのボランティア室を拠点とする「YWCA千里」として装い新たに会員活動を展開するようになったのです。ボランティア室によるYWCA千里の活動と、社会福祉法人によるシャロン千里の事業が、共に地域の人に愛され、幼児から高齢者までが集えるユニークな憩いの場として、ゆみない成長を祈ってやみません。

(会員 高野芙美子)

シャロン千里は10年めに入りました!

 大阪YWCAシャロン千里がオープンした2000年2月は、少子高齢化社会への整備が急務の時代でした。
 大きな社会変化を敏感に受けとめた大阪YWCAの決断は、YWCA運動の新たなモデルとしてシャロン千里を誕生させました。
 今日までのシャロン千里の歩みは、千里センターの歴史に支えられた日々であったと深く感謝しております。
 開設当初、シャロン千里を利用される多くの方々は、大阪YWCA活動の延長線上にある施設としてシャロン千里を選ばれました。その期待を裏切ることなく、信頼を深めながら今日を迎えられたことは幸いです。
 中でもケアハウスの入居者募集は、開設準備の慌ただしい中での作業でしたが、大阪YWCAが運営するケアハウスなら安心との理由で入居を決められた方が多数あり、短期間にもかかわらず定員を上回るお申し込みがありました。
 また「こんなに心のこもったお弁当を届けてくださるところのヘルパーさんを利用したい」と、千里センターの配食ボランティアサービス利用の方からヘルパーのお問い合わせをいただいたこともありました。
 10年めに入り、シャロン千里は地域の皆様にとって、信頼を持って利用したい社会資源の一つとして認めていただけるまでに成長しました。働く者の一人ひとりの努力が着実に実ってきている手応えに大きな喜びを感じます。
 開設当初からシャロン千里を支えてくださっている大阪YWCA会員・ボランティアの方々の熱い思いは、シャロン千里を単なる社会福祉施設ではなく、無限の可能性を持ったYWCAの機能の一つであることを常に語り続けてくれます。
 今日、ボランティアの方々は、職員と共にシャロン千里の大きな魅力となって活躍されています。これからも、YWCAの仲間と共に「いのち」を大切に守り続けていきたいと願っています。

(シャロン千里施設長 坂上信子)

YWの窓 今、あらためてパレスチナ問題 Q&A

Q1パレスチナ問題って何?
A:48年5月のイスラエル建国により、70万といわれるパレスチナ難民が発生。同年12月の国連総会は、難民の帰還権を認め、帰還を望まない者には失った財産を保障すべきと決議しました。67年には、第三次中東戦争で占領された領土からのイスラエル軍撤退を求める安保理決議も採択されましたが、難民状態と占領は続いています。パレスチナ問題は、60年前に武力で故郷を追われた難民の帰還の権利と、不法に占領された領土の回復を求める闘いです。

Q2ハマスがガザから攻撃するから悪いのでは?
A:2005年、イスラエルはガザの入植地からイスラエル住民を引き揚げさせ、軍隊も撤退しましたが、ガザを封鎖しました。廊下のように細長いガザは、北端の「エレツ検問所」が唯一の出入り口です。その検問所が封鎖され、人々は狭い部屋に鍵をかけられ置き去りにされた状態になりました。医薬品や食料も届かず、栄養失調で苦しむ子ども、特別な治療の必要な病人や妊婦などが次々と犠牲になっています。イスラエルとハマスの軍事力は雲泥の差。ハマスのロケット攻撃は、絶望中に置き去りにされたガザの状況を反映しています。

Q3私たちにできることは?
A:正しく知る努力を続け、それを周囲に伝えること。よい記事には賞賛、偏った報道には意見をマスコミに伝えることも重要です。そして、パレスチナの人々に連帯の心を伝えること。募金をする、カードやメールを送るなど、YWCAを通じても可能です。

(職員 宮崎 祐)

専門学校あれこれ 日本語教師養成講座〜専門家の道を歩む修了生〜

 私が大阪YWCA日本語教師養成講座に通い始めたのは、93年4月のことでした。日本語教師という、まだ漠然としていた夢が、YWCAに通うことで、少しずつはっきりしたものになっていったように思います。年代の違う仲間たちとの出会い、先生方の刺激的な講義、緊張しながら初めて教壇にたった実習。思い出のたくさんつまった充実した2年間でした。
 そして、YWCAを修了した95年春に大学院に進学し、しばらくして民間の語学学校で教える機会が得られ、日本語教師としてのスタートラインに立ちました。いくつかの教育現場に非常勤として通いながら大学院の授業に追われ、忙しく過ぎていく日々の中、「海外で教えてみたい」という気持ちが次第に強くなっていきました。
 その後、00年6月から08年3月にかけて、インドネシアに約3年、台湾に4年間滞在し、現地の大学で日本語を教えました。海外生活においては、治安面での不安やインドネシア語や中国語で自己表現ができないもどかしさを感じたりしましたが、それ以上に何より、日本や日本語に対して熱い気持ちを持った人々が数多くいることを知ることができたこと、異なる文化の中で文化的な少数者として滞在したからこそ見えたこと等、得られたものも本当に大きかったと思います。
 現在は、茨城という新しい土地で留学生を対象とした日本語教育に携わっています。日本語を教える以外に、様々な問題に直面した留学生の相談にのったり、留学生と日本人学生との交流を促進するイベントを企画したりしています。
 YWCAを修了してから、早14年が経とうとしています。いつ会ってもいろいろなことが共有できる大切な仲間、そして、様々な経験を与えてくれたYWCAに心から感謝しています。

(95年3月修了 茨城大学准教授 藤原 智栄美)
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