臨床ということばのイメージには、白い病室がつきまとうところがあります。傷つき、病み、疲れたひとが苦悶と喘ぎのなかで横たわっている。そこへ治療や看護を役割とする白衣の人が現れるという構図です。このような臨床のイメージは、医療に対する期待と病苦への恐れが相まって複雑な印象をわたしたちに与えます。自分が身を置くには恐ろしいけれども、ときには、どうしても必要な救いの場。臨床といえば、専門家にだけ立ち入ることが許された特別な領域と考える人も多いでしょうが、それは臨床に対する狭い見方だとも言えます。
臨床(クリニック)ということばの語源になるのは、ギリシャ語で病床を意味する「クリニコス」または、もたれ掛かるという意味の「クリナイン」だと言われています。クリニコスは最期の時を迎えたひとが語ることばを聴く場面でもあります。クリナインは我が身を病床に傾けて微かになった声を聴き取ろうとする姿勢とも考えられます。臨床ということばの古層に立ち返れば、臨床とは苦しみにある人の声に触れようとして身を傾ける姿勢を意味するのです。
ひとは母の産みの苦しみに付き添われて、この世に生を受けます。そしてひとの間で命をはぐくまれ、ひとびとの喜びや苦しみの狭間に生をつないでいきます。ひとはひとの苦しみと出会うことを抜きにして生きることはできないのです。この意味では臨床は誰もが身を置かざるを得ない関係の場です。
さて、臨床コミュニケーションについて、何が大切なのでしょうか。コミュニケーションには、さまざまな技術がありますが、臨床コミュニケーションにおいて何よりも重要なことは、苦しみにある人と出会い、その場に共にいること、そして耳を澄ますことではないでしょうか。何をどう話すかは、その後に起きてくる出来事であり出発点ではないのです。このことを私は蕪村の句から教えられました。
「看病の耳に更けゆくおどりかな」という句です。看病する人の前に横たわる病人。外の世界とは隔絶された狭い病室で、二人は時の流れを共にしています。元気であれば出かけていったはずの祭りの踊りの音も、夜が更けていくのと同時に微かになっていきます。この句には病人のことばはありません。しかし、病人の苦しみの上に、悔しさや悲しさを波立たせる踊りの音を、口数少ない看病のひとも聞いています。二人はことばを交わさずに同じ世界に生きているのです。これが臨床のはじまりの姿ではないでしょうか。
西川 勝(大阪大学コミュニケーションデザインセンター特任准教授)
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