NCC(日本キリスト教協議会)が主催したチェルノブイリツアーに、横内いづみ会員が参加。事故から22年たった現地状況の報告を寄稿してもらった。
「どこへ行くの?」「チェルノブイリツアーよ」「エッあの事故のチェルノブイリ?」
こんな会話を何人かの人と交わした。
ここ数年、私が関わってきた団体の「平和のつどい」で「チェルノブイリ」の写真展示をしていたが、実際には見たことのないチェルノブイリ原子力発電所や周辺の景色を見ておきたい、知っておきたいという思いから、今回の旅に喜んで参加。ウクライナのキエフ、ベラルーシのゴメリ、ミンスクを起点に動いた。
ゴメリを出発、牧草地や森、そして広大な大地が広がる。高濃度汚染地へ向かっていくと車は徐々に減り、やがて姿を消す。検問を過ぎたところは、かつての美しい保養地で、建物がそのまま残っている。木が草が茂り、家をのみ込もうとしている。置いていかれた牛や馬、野生動物が増え、キノコや木の実が豊かに実り、美しい花も咲いている。しかしここは居住を許されない立入禁止区域。汚染地へ入るときは、市や関係省庁の人が必ず同行する。
ウクライナのキエフからプリピヤナ市、チェルノブイリ原子力発電所へと向かう。美しい牧草地、森、まっすぐに伸びる道。30キロゾーンの検問をすぎると立派な道路の両側に並ぶ家々はやはり木や草に覆われている。22年前そのままの姿で人間だけが消えてしまった町。10キロゾーンの検問を過ぎ、発電所全体が一望できる場所に来る。そして4号炉のすぐ目の前に移動した。現場に駆けつけた消防士たちは、何も知らされず、何の防御もなく普通に消火活動をしたため、多くの若い犠牲者を出した。たくさんの人々が、永く住み慣れた家、夢見て求めた新しい家と美しい景色、恵まれた環境を失い、広大な放射能汚染地帯をつくった。かつて立派なマンションが建ち、公共施設、遊園地があった場所は22年前に動きを止めてしまった人のいない町となった。一軒の家の壁に残されていた。「ごめんなさい、さようなら、わたしの家」と。
後の処理のため、チェルノブイリ原子力発電所へは今もたくさんの人たちが通ってくる。そして今日、事故を歴史として子どもたちは学ぶ。自分達が汚染地に住む被曝者であることを知りながら。
ガンの子どもと母親の組織「困難の中にある子どもたち」の事務所や教会、国立チェルノブイリ博物館等も訪ねた7日間の旅であった。
(会員 横内いづみ)
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