暴力とは、「相手を威嚇して自分の思い通りに支配するために使う強制的で無法な力」です。一対一の人間関係では、暴力は当然のごとく非難されてきましたし、やっと近年、親子や夫婦など「家庭内」での暴力も人権問題として対応されるようになり、「男性の非暴力教育」とか「子どもを体罰から守る」といった視点での取り組みも注目されつつあるのは、長年、女性のカウンセリングにかかわってきた者として喜ばしい限りです。
しかし最近、「非暴力社会の実現」というのは個人の関係を見ているだけでは問題を克服できない、いや問題の本質にも迫れない、という思いを強くしています。長年、女性センターでの相談事業にかかわって、DV被害者、性被害や虐待サバイバー、セクハラ被害の後遺症で休職中の女性などの自立支援と住みやすい社会を考える時、社会に構造化されている「強者の論理・弱者切り捨て」という社会の大きな壁、「構造化された見えない暴力」に気づかざるを得ません。
アメリカ社会では、ブッシュ政権8年間の影響で、年収200万円以下という「貧困家庭」が12・6%に増え、収入が国平均の半分以下の家庭で暮らす子どもの割合である「子どもの貧困率」が21.9%となり先進国では一位です。日本は14.3%で二位(デンマークが2.4%で最低、次にフィンランド、ノルウェーが続く)ですが、日本でもバブル崩壊後の構造改革・新自由主義的市場経済の導入で、女性の大半は非正規雇用に押しやられ、シングルマザー家庭であれば年収100万円台を抜け出すのは至難の業になっています。
そして、男女格差が経済格差となり、労働ではなくお金がお金を生み出す社会では、「経済格差が安全格差」となってしまうのです。教育も社会福祉も民営化されて利益が優先され、労働者は消費者として企業をさらに富ませるために利用されるという社会の仕組みが、我々の生活だけでなく心をも蝕んでしまい、その結果、若者たちの中には「31歳、フリーター。希望は、戦争。」(赤木智弘「若者を見殺しにする国」双風舎)という主張さえ生まれてきました。そこにあるのは、国・人種・宗教・性別・年齢などあらゆるカテゴリーを越えて世界を二極化している格差構造と、それを糧として回り続ける市場の存在だという指摘もあります。(堤未果「ルポ 貧困大国アメリカ」岩波文庫 2008)。
国・社会構造・市場経済といった「支配の暴力」に対して、どのような「市民としての不服従」「非暴力の抵抗」ができるのか、今、そのための戦略が市民活動団体には求められていると思います。アメリカや日本を始め経済不安を抱える国では、一部バックラッシュのような原理主義(宗教的な)への揺り戻しが見られます。しかし、本当に聖書の根本の戒めに立ち帰るなら、「殺すな」「盗むな」「むさぼるな」という言葉に忠実でなくてはならないはずです。「非暴力・非支配・非搾取」というキリスト教本来の教えにそむかない社会の実現にむけて、私たち一人ひとりも「具体的な被害者支援」と同時にキリスト者として「構造化された暴力への不服従・非暴力の市民活動」を進めなければと思っています。
(大阪府立女性総合センター(ドーンセンター) コーディネーター 川喜田好恵)
|