末期がん患者の苦痛を医学的に緩和するだけでなく、心と魂のケアにも強い関心を寄せる病棟でチャプレンとして、今までに約800人の方を看取ってこられた筆者に、誰しも身近にある「老い」と「死」についてメッセージをいただきました。
「老い」と「死」について考えてみた。「死」は、病気、自然災害、事故など、年齢に関わらず、時には突然、嵐のように不条理な形でやってくる。一方で「老い」は、歳月を重ねた末に迎える、人生の秋のようなステージである。当然、「秋」の後には、「冬」がくるので、「死」を内省する時間や、身近な人を失う出来事に遭遇する経験が多くなることだろう。
共通する部分が、いくつかある。それは「死」も「老い」も、私たちの「喪失」の体験だということだ。「喪失」とは、失うというよりももう少し強く、望まない方向へと、奪われていくような苦々しい体験であると思う。他者の「死」は、その対象への愛着が深ければ深いほど、その悲しみは深くなる。「老い」は、肉体の機能を失っていき、人の助けを受けなければならない自立性を「喪失」するような厳しい体験だとも言える。そして、そのような「死」と「老い」は、誰もが逃れることはできないものである。
誰もが逃れることができないのならば、どのように受け止めていくことができるのだろうか。私は、そのための三つの心構えを考えてみた。
一つ目は、日頃から正直な気持ちを分かち合える人を見つけることだ。そんなことを言われても、「人間なんて、所詮、孤独なものだから、分かり合える筈がない」、「そんな相手は私にはいない」と思う方がいるかも知れない。ならば、あなた自身、私自身が、そのような人になれるように心構えを持ちたいものだ。
二つ目は、いつ、その時が訪れても、悔いのないような時間を過ごす心構えを持つということだ。実際に、私たちは、様々なこだわりや過去や欲に縛られて生きている。そして不自由さを抱えている。しかし、明日、その時が訪れるかも知れないという心構えを持っていれば、今、こだわっている事柄が、本当に大切なものかどうかを内省することができるだろう。
三つ目は、喪失は苦しい体験だけれども、そこにも意味を見出すということができるということだ。「喪失」によって他者の痛みを知り、弱さを知り、自らの限界をも知ることができる。キリスト教では、「死」ですら絶望で終わらないと語っている。
結局のところ私たちは、どんなに努力しても、歳月を重ねても、「未完成」なままの存在であると私は思う。そして、どんな形であっても、その「未完成が完成される」ことが「死」であり、私はそれでよいのだと思う。
(愛和病院チャプレン 今城慰作)
|