2007年秋、日本とパレスチナの劇団の共同公演が行われました。パレスチナからの劇団は、ラマラを拠点に活動する演劇人。企画立案、招聘を主催したのが、俳優・大久保鷹をはじめとするプロジェクト・チーム。日本人俳優は日本語、パレスチナ俳優はアラビア語、二つの言語が交差してせりふがやり取りされ、アラビア語のせりふには日本語字幕が投影されました。
「アザリア」はエルサレム近郊の村の名前で、エルサレムに平和を運ぶ天使の通り道、とも言われている場所だそうです。「アザリアのピノッキオ」に寄せて、現代アラブ文学、パレスチナ問題に精通している岡真理さんにメッセージをお願いしました。
今年9月から10月にかけて、東京、名古屋、京都の3都市でパレスチナ・キャラバンの『アザリアのピノッキオ』の公演があった。パレスチナと日本の役者が共同制作したテント芝居だ。
難民キャンプのオリーブの木の下でパレスチナ人の老人は孫に、幼い頃出会った人形芝居一座の話を語き聞かせる。他方、今は新宿でぼろ屑拾いのホームレスとして暮らす一座の団長は、かつてエルサレムで出会った難民の少年のことを思い出す。二人の男の回想が時空を越えて一つの物語に縒り合わされる。
人形芝居に興じた少年はイスラエル軍に殺され、その死を目の当たりにした団長はエルサレムで行方知れずとなり、やがて野宿者に身をやつす。そこには団長を演じる役者、大久保鷹自身の思いが色濃く重ねられている。
一九七四年、鷹はレバノンのパレスチナ難民キャンプを回り、子どもたちに「風の又三郎」の芝居を見せる。だが、その二年後、鷹が訪れたタッル・エル=ザァタル・キャンプでは四千人が虐殺され、八年後のシャティーラでは二千名以上が殺される。無残にも殺された犠牲者の中には、鷹の芝居に興じた子どもたちもいただろう。芝居を見た子どもが虐殺される現実の中で、芝居を演じること、役者であることにいかなる意味があるのか。鷹が自分に突きつけた問いだった。ダマスカス門の彼方に消え去る団長とは、鷹自身の姿でもあった。鷹が訪れたレバノンの難民キャンプは、『アザリアのピノッキア』では第二次インティファーダさなかの占領下のキャンプに置き換えられる。一座が出会う難民の少年の名はムハンマド・ドゥッラ。2000年9月のインティファーダ勃発直後、銃撃され、父親の腕のなかで息絶えた、ガザの12歳の少年だ。
物語は、少年がピノッキオと冒険の旅に出る場面から始まる。本当の人間の子どもになりたかったピノッキオとは、人間として生きることを何よりも夢見る無数のムハンマド・ドゥッラの謂いにほかならない。
芝居の最後、テント芝居の約束どおり舞台背後の天幕が落ちる。すると、港から船が遠ざかるように、夜空の彼方に向けて去っていくパレスチナ人たちの賑やかに歌い踊る姿があった。それは一九八二年、イスラエル軍のレバノン侵攻でベイルートを追われ、船でレバノンを去る何千人ものフェダーイーン(パレスチナ人戦士たち)の姿だった。船路の先にどんな未来が彼らを待つのか。事実、その数日後、ベイルートに残された難民たち数千人がサブラーとシャティーラで虐殺される。だが、今この瞬間、生きていることを寿いで、賑やかに踊り歌い、敗北の船上を生の祝祭空間に変えること。そうやって彼らは、六〇年に及ぶ苦難の歳月を、絶望のさなかにあってさえ希望を失わずに生き抜いてきたのだということを、パレスチナ人の歌声にのせて作品は力強く訴える。涙が止まらなかった。
(岡 真理 京都大学准教授・現代アラブ文学) |