◇YWの窓
「怪談・自衛隊イラク派兵」
◇男の目
「お客様の笑顔が喜び」
[四面]
◇専門学校あれこれ
ランゲージコース「映画をツールに英語のチカラをアップ!」
◇ピースアクション2005
語り継ぐ「九条」―平和を求める私達の言葉―
その他
沖縄は、'78年、沖縄県立資料館にある言葉「あらゆる戦争を憎み平和な島を建設せねばと思いつづけてきました。これが、あまりにも大きすぎた代償を払って得たゆずることのできない信条なのです」に至る。沖縄戦体験者が戦後33年目にして重い口を開き始め証言を紡いでくれたことによって生まれた信条だ。
この信条が「普天間基地の大地や空は私たちのもの」と確信する女性たちの、辺野古新基地建設阻止の座り込みや「海の恩、山の恩を忘れてはいけないヨー」(海の恵、山の恵で命を得た)と語るオバーたちの原動力なのだ。
米軍政下からの解放を「日本復帰」という選択肢で選び取った沖縄。33年目の今、その選択を吟味する論議が生まれ、当時の証言が聴かれ始めている。願いは、基地も核もない沖縄、国の交戦権を認めず陸空海の軍事力を持たない憲法9条を持つ平和憲法下に復帰することだった。日本の平和憲法は「沖縄戦と米軍統治」という大きすぎる代償を払って勝ち取ったものだと思う。沖縄にとっては、押しつけ憲法ではないのだ。
憲法は民衆の権利や義務の規定と同時に、国家権力の暴走を許さない枷(かせ)でもある。アジア民衆への加害者として、愛するものを失い傷ついた被害者として、戦争の記憶を記録し、戦争に繋がるあらゆることを許さないために、憲法9条を持つ平和憲法の選び直しの闘いがヤマトに住む一人一人に負われていると沖縄からは思える。腹を据えて足下から取り組んで欲しい。それが、沖縄との連帯だ。
沖縄は日米安保体制のために戦争に直結し、米軍と自衛隊が戦場に飛び立つ前線として使われており、被害と加害を日常的に受け続けている。黒こげた沖縄国際大学の壁と映像で見るイラクの戦場と何ら変わらない戦中だ。戦後として数えられる60年ではない。
沖縄にとって基地・軍隊が居ない島々を取り戻した時から戦後の歴史は始まる。その事を願いつつ平和のために労苦を共に負っていただきたい。
当時女学校の2年生で、学徒動員で大山崎にある工場で落下傘の材料となる絹布つくりをしていた。空襲警報が出るたびに近くの竹やぶに逃げ込んだ。学校には1ヶ月に1回ぐらい行ったが、授業はなく校庭の開墾をさせられた。
(Bさん 1930年生)
'45年の春、師範学校を出て小学校へ赴任した。集団学童疎開の付き添いで福井県のお寺へ行った。食糧難で子供たちはいつもお腹を空かしていた。午前中は授業をしたが、午後からはイナゴを取ったり、せりを摘んだり、燃料のたきぎ拾いをした。
(Cさん 1925年生)
空襲で堺の家が焼けお寺にいれてもらった。次の日、焼け残りを探しに行ったら黒焦げになった死体が転がっていた。足元は熱くて歩けなかった。京都の祖母の所へ傘一本でももらおうと思い行った。そして終戦の前日、京阪電車で堺へ帰ろうとしたら天満橋の手前で最後の大阪空襲に遭った。かろうじて生き延び京都へ戻り、翌日の正午、京都駅で天皇の言葉を聞いた。大阪で無条件降伏の号外を見たが、無条件降伏の意味は理解できなかった。当時、私はもちろん堺の空襲で被災し、衣食住皆無の日々だった。
(Dさん 1927年生)
兄の出陣を見送るためにお茶ノ水駅へ行こうとしたら電車の窓から一面焼け野原になった町が見えた。川に黒くなった死体がたくさん浮いていた。通っていた女子大は爆撃を免れたが、少し離れたところに飛行機を作る工場があり、そこにたくさんの爆弾がおちた。
(Eさん 1923年生)
昭和20年8月6日、それは私の人生の原点である。
その日広島女学院の学徒動員での作業中、異様な閃光と風圧に身体が宙に浮いた。不気味なキノコ雲が立ち上がり空全体が赤いモヤに覆われた。ガスタンクの爆発ではと想像し作業に戻った頃、負傷者が工場に運びこまれてきた。皆が一様に裸の状態で皮膚はワカメのようにたれさがり、眼球が飛び出し唇ははれあがっている。続いて歩いてきた人々も同様で負傷者の長蛇の列はさながら地獄絵図であった。工場は救護所になり「水をください」という人々に水を配った。助かる見込みのない重症の人にだけあげるようにとのことだったがその見分けがつかず苦しかった。ひどい悪臭が部屋一杯に充満していた。
午後遅く帰宅の途についたが、自宅に通じる橋が焼け落ちていて戻れず、まだ燃え続ける炎の海を前に生まれて初めて真剣に祈った。「神様みこころならば助けてください」。その時「天地は過ぎゆかん、されどわが言葉は過ぎゆくことなし」、入学以来苦手だった聖句が鮮やかに頭に浮かび、この日聖書の言葉は生きて私のものになった。
「水をください」「助けて」という多く人々の断末魔の叫びや、行く手をさえぎる宙に突き出された無数の腕にもどうすることもできず、非情に通り過ぎた私は、己の罪の深さを思い戦後ずっと苦しんできた。
冷たくなった母親に無心にしがみついている赤ちゃんや子どもの姿があちこちに見られた。最近、親子の間での殺人など人の命を大切にしない事件が後をたたない。あの日死んでいった多くの子どもたちのことを思うと、今はそれが一番悲しく気がかりだ。
夜、電柱だと思ってまたいでいたのはすべて黒こげの人や馬のカタマリだった。裸で作業していた兵隊さんはカラケシのようになって積み上げられていた。自分の手で家族を焼いた人たちのことを思い出す。教会で「葬儀はどうしますか」ときかれるが、多くの人を置き去りにしてきた自分には、自分の葬儀のことは考えられない。
教会やYWCAは、多くのことを教えてくれた。自分が被害者だけでなく加害者であるということも。
夏になるとあの日の臭いが襲ってくる。でもそれはあの日生きたくても声一つ出せなかった多くの人々のメッセージだと思うようになった。
自分はなぜここにいるのか。
自分の罪の大きさにこれまで封印してきたものを最近、神様は語るようにしてくださった。そのことに感謝している。戦争はあらゆる悲劇を招く。絶対してはならないことである。
(Fさん 1930年生)
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