◇YWの窓
オリーブの木キャンペーン
◇男の目
「住民がもつ「底力」」
[四面]
◇シャロン千里オープンハウス開催
その他
『イースター、それは命への招きです』
イースター(復活祭)は、主イエス・キリストの甦りを祝う日として代々の教会が守ってきました。牧師達が毎週主の日に口癖のように語っているのも、よみがえられた主イエスの事。主の日とは、甦よみがえりの主の日の事です。
十字架に死んだ主を痛み、悲しみの打ちひしがれていたマグダラのマリアたちが、週の初めの日の明け方、墓に行った時の事。天のみ使いが現れ彼女達に言いました。『あの方は、ここにはおられない』。
救い主・師と仰ぎ従ってきた方が十字架で死んで葬られた事は、彼女たちの耐え難い悲しみでありました。その上、愛する方の亡骸まで奪われたと思った時のマリア達の驚きと失望は、底知れない空しさに引きずり込まれるような、一縷(いちる)の望みさえ絶える絶望に陥れられる程の事でありました。せめて亡骸にでもすがって泣きたいとねがったのでしょうか。死の中に主の姿を求める女達でありました。
しかし、み使いの言葉は、死んだ方が既によみがえられ、もうここにはおられないだったのです。『あの方は、ここにはおられない』とは、他におられることを意味します。墓の中にはおられない、ということです。亡骸にすがって泣く所・墓にはおられない。死の中に留まってはおられないのです。よみがえって弟子達に自らをお示しになり、召すために進んで行かれた事が告げられます。
信じる者へと変えられる
み告げを聴いた女達は、恐れながらも大喜びで、弟子達に告げに行きます。彼女達は、恐れの中・絶望の中で、信じる者へと変えられて行っています。信じる者と変えられていった歩みの途上で彼女達が経験したことは、もっと驚くことでした。甦られた主が彼女達に出会って下さったのです。亡骸の中に出会いを求めて絶望の淵を歩いていた女達。その前に甦りの命を生きるキリストご自身が現れて下さいました。そこで、彼女達は、主に近寄って拝したと言います。礼拝したのです。
ご復活の主との出会いは、主を礼拝する者へと女達を変えて行きました。主の死の経験、絶望の経験が、主の生に触れた時、自らも主の生の証し人に変えられていったのです。
イースターの朝の主の復活の出来事は、死の中に留まろうとする私達をも主の生の中に招かれ、礼拝者となるよう招かれています。
市川和恵(牧師・日本基督教団長居教会)