今から約160年前の1855年、英国に祈りと奉仕のグループとして生まれたYWCAは、人種、言語、国籍の違いを超えて世界にその輪を広げていった。日本にもその種が蒔かれ、日本YWCAおよび東京YWCAが創設されたのが1905年(明治38年)、時あたかも封建社会から目覚めた婦人達が真の解放をめざして立ち上がり苦闘していた時代である。キリスト教信仰による人格向上と婦人の教育の前進、および社会への奉仕を目的とするこの活動は、それから約10年を経てようやくその枝を大阪の地に伸ばそうとしていた。
1917年、日本YWCAより外国人幹事2名、日本人幹事2名が派遣され、大阪YWCA設立準備を開始。
キャロライン・マクドナルド(初代日本YWCA総幹事)や河井道子(日本YWCA総幹事、恵泉女学園の創立者)が訪問して相談していた。大阪には日本YWCA中央委員で実業家としても名高い広岡浅子がいた。日本YWCA派遣の幹事は広岡の協力を得て、1917年秋からバイブルクラスや英語クラスの他、週1度の工場訪問などの活動を開始。1918年、天王寺公会堂で女学生1,000人を集めて正式に大阪YWCA発会式が行われ、10月正式に大阪基督教女子青年会が設立された。
日本YWCA夏期修養会・中央廣岡浅子(公益財団法人東京YWCA所蔵)
天満時代英語グループ
1,000人の少女集う(女子青年大会)
夜間女学校
当時言われ始めた「女性の自立」を目指す活動の第一歩、働く婦人のための事業は、寄宿舎と夜間女学校という形で実現した。高等小学校を卒業しただけで職業につき、なお向学の志に燃えて専検パスを目指す少女達の多いことを知り、1920年(大正9)より補習夜学を開始。その後、さらに特殊学校、補習夜間女学部として設立を考え、会をあげて努力し、1924年(大正13)9月に大阪府の認可を受けた。夜間女学部は大阪において働く女性の知識欲を充足させるただ一つの機関として、その要望にこたえユニークな存在となった。これは後に日本で最初の夜間女学校の指定を受け、昼間の高等女学校と同等の資格を得られる「扇町夜間女学校」となった。
1923年 大阪市北区西扇町(現在地)に会館を新設、働く女性のための寄宿舎を開設。1930年(昭和5)頃より社会部を設け、職業紹介の働きが始められた。不況の進行は女性の就職に厳しいシワ寄せを与え、その利用度が増し、必要にこたえる形で1932年(昭和7)大阪府認可の女性専門職業紹介所を開所した。1930年(昭和5)就職数は42だったものが、1934年(昭和9)には314にのぼった。
また、1935年(昭和10)3月には求職者宿泊所「母の寮」を建て増した。
職業紹介所に子連れの母親の仕事を求めて来る数が多くなる。住込みも通勤も難しく母親の困惑は見るも痛々しい、何か打つ手はないかということから母子ホームの計画が立てられた。1936年匿名の寄付により東淀川区豊里町に土地を取得、翌年ヴォーリズ建築事務所建築設計で10家族収容の母子ホーム「藤寮」が誕生した。困窮の母子の生活を支えてほぼ10年、母子ホームは戦災で焼失するまでその尊い使命をはたした。
扇町婦人相談所は厚生省の方針、労働調整令実施により、職業紹介の必要がなくなり自然消滅の形となる。悪化する戦線への兵力補給は、必然的に銃後の労働力のおびたただしい不足となり、その補いは未婚女性と学徒に求められ、軍需生産に食糧増産にとかり出された。夜間女学校および学院はキリスト教主義のゆえにたびたび文部省や府学務課より介入を受けていた。夜間女学校は学制改革により名称も変更して恵星高等女学校として認可されたが、1944年(昭和19)にはついに学校としての礼拝、宗教教育は禁止された。1945年(昭和20)3月未明の大空襲は、2~3時間のうちに大都市大阪を簡単に変貌させた。ついで6月の空襲で別館2階の屋根裏に焼夷弾が落ちたが、留守を守る者の手によってかろうじて消しとめ、講堂も道路側の窓は全て爆破され、飛び込んだ焼夷弾を室外に必死で放り出して助かった。が、近辺一帯はほとんど焼けて阪急百貨店の建物が目の前に見えるほど、一面の焦土と化したのである。
1944年第18回卒業式
傷病兵慰問プログラム
有史以来敗戦という未曾有のできごとに遭遇して、この焦土と虚脱状態の中でどう生きたらよいか、180度の転換をどううけとめたらよいか、若い働く女性たちの新しい生き方を求める気持ちはおさえがたかった。終戦後、まず第一番に着手した活動は「婦人文化教室」である。戦争中の動員で若い日々を犠牲にした人たち、勉強もできず傷つき疲れた女性のために、新しい時代にふわしい知識、物の考え方、学び高められる喜びと心の潤いとを提供することこそYWCAの役割と考えてのことである。人が集まるかと心配されたが、申込者は列をつくり、講堂はあふれかえり、ついには断らねばならないほどであった。敗戦の虚脱と混迷のただ中から何かを求めに求めて立ち上がろうとしている女性の熱意が痛いほどうかがえた。また、そういう要求に応えるものといっては、その時代には、たしかにYWCAしかなかったのである。それは敗戦と同時に得られた女性にとっての一つの新しい夜明けでもあった。
BGクラブ
BGクラブ
創立40周年を迎えた1957年(昭和32)、大宮町センターを建設した。かつて母子ホーム事業が営まれた地と等価交換で得た大阪市東部、旭区大宮町に、働く婦人たちの集会所、および地域の主婦の生活向上に役立つ設備をもったセンターをつくろうと、その夢と祈りが実現したのである。その後、大宮町センターは、乳幼児をもつ母親が乳幼児を預けられる施設としての役割が求められ、大阪市家庭保育認可による乳児保育事業を開始し、1971年には0才児保育の草分けとして、厚生省認可による小規模保育所「乳幼児保育園」に発展する。さらに大規模保育園運営にあたり、1978年社会福祉法人設立の認可を受け、現在の大阪YWCA大宮保育園へと引き継がれている。
大宮町センター
大宮町センター託児室
大宮町センター託児室
大阪の北部、その名も「千里」という広大な土地に、忽然として東洋一のニュータウンが生まれる計画が進められ、そのような地にYWCAの働きが必要なのではいかとの声があがった。1969年、創立50周年記念事業として、開発されたばかりの千里ニュータウンに千里センターを建設した。ニュータウンという団地の、ともすれば閉鎖的になりがちな地域の中に新しい人間関係をつくり、そこに住む人々と共に働く場をつくろうとの願いを込めて、会員の総力をあげて計画が進められた。子ども図書室、YWCA千里合唱団、国際交流、福祉活動などの、多彩なボランティア活動のほか、語学、日本語教育、幼児教育などの教育事業も展開された。
千里ニュータウンブランチ建設に関する懇談会
大阪YWCA千里こども図書室
社会福祉法人大阪YWCAシャロン千里
1990年代後半、高齢化する地域のニーズへの取り組み、大阪府の提唱する「やさしい社会づくり」(会館のバリアフリー化)への対応、慢性的な財政問題等、差し迫る検討課題が山積していた。高齢者支援の充実、建物の環境整備など抜本的な改革が望まれ、ケアハウスを中心とする総合福祉施設への建て替え案が急速に浮上した。この夢のようなプランには乗り越えなければならない様々な課題があったが会員・職員が力を合わせ解決し、2000年千里センターは総合福祉施設、社会福祉法人大阪YWCA福祉会シャロン千里として新たな歩みを始めた。ケアハウス(軽費老人ホーム)を中心に6つの施設・機能を備えており、会員によるボランティア活動も活発に行われている。
近畿中国帰国者支援・交流センター開所式
1930年代から終戦まで、多くの日本人が「満蒙開拓団」として旧満州(現在の中国東北部)に移り住んだ。1945年の終戦時、日本への引き揚げ途中で多くの日本人が旧満州で死亡(その数は24万人余りと推計されている)。そうした混乱の中、中国に残留することになった女性や子どもを「中国残留邦人」と呼び、その配偶者やその子、孫なども含め「中国帰国者」と呼んでいる。日中国交正常化後の1981年から、国による肉親を捜す訪日調査が始まり、約6,000名余りの中国残留邦人が故郷である日本に帰国したが、言葉、習慣、文化の違いにより、日本に帰国後も進学、就職などにおいて様々な困難に直面。大阪YWCAはそうした中国帰国者への支援事業を1976年秋頃、大阪府民生部より中国帰国者の定住促進のために日本語教育と生活指導を引き受けて欲しいとの打診があり開始。微力ながら中国帰国者を支援することにより、戦争の後始末の一端を担うことができるならばと、この事業に取り組むことになった。継続して経費が補助されない時期には、せめて仕事ができるようになるまでとYWCA会員が資金集めに奔走し、様々な協力のもとクラスを継続した。
現在では、厚労省からの委託事業である近畿中国帰国者支援・交流センター事業に加え大阪市、堺市等自治体からも事業を受託し総合的な中国帰国者支援事業を行っており、大阪YWCAには現在20代から80歳近くまでの幅広い年齢層の延べ約700名の中国帰国者が日本語学習や交流活動を目的に通所している。中国帰国者の顔を見ない日はないほどである。また、中国帰国者は日本語が十分に話せない人も多く日常生活や職場等で様々な課題を抱えている。そのような課題を少しでも解消し、地域や職場でも活き活きと過ごせるよう、若年層の就労支援など大阪YWCAとしてできる限りの支援を行っている。大阪YWCAの会員やボランティアとも交流や活動をともにし、互いに学びあう場にもなっている。
戦争により苦難の多い道を歩んできた中国帰国者の体験談に耳を傾けると、戦争の傷跡は今なお癒えず「平和」の大切さを心から感じさせられる。中国帰国者にとって大阪YWCAは安心して学び、楽しむことのできる平和な居場所となっているのかもしれない。
太極拳
盆踊り(門真教室)
現会館(梅田)
1980年の新会館竣工に伴い、各種学校「大阪YWCA学院」として行ってきた教育事業を、どう展開するかが模索された。その結果、これまでの語学・ビジネスの各種クラスや日本語教師養成講座等に加え、秘書を養成する全日制の本科「セクレタリアルアーツ学科」を擁する「大阪YWCAセクレタリアルアーツ専門学校」として生まれ変わることとなった。1982年4月、セクレタリアルアーツ学科に珠玉のような12人の学生を与えられ開校の運びとなった。
そこで新たに1995年、国際団体としてのYWCAの特色を生かし、正義と平和の実現のために働く人材を養成する「国際関係開発学科・国際ボランティアワーカーコース」を、世界YWCA100周年記念事業として誕生させた。この年の1月におこった阪神淡路大震災で、多くのボランティアが救援活動に携わり、ボランティア元年と呼ばれた年でもある。卒業後学生たちは、大阪をはじめ各地のYWCA職員として、あるいはNGOやNPOの職員として活躍している。
一方、1984年に文部省(当時)が発表した留学生10万人計画によって、中国を中心とするアジア地域に日本語教育ブームが巻き起こった。大阪YWCAでも1985年4月に全日制日本語学科が開設され、世界各地から外国人男女の学生が入学してきた。初年度は1クラス17人でスタートしたが、1年半後には特に中国からの入学希望者が殺到し、7クラスにまで増加した。そこでセクレタリアルアーツ学科と並び、日本語学科を本科として位置づけることとなった。それに伴い1987年、学校名を「大阪YWCA専門学校」に改めた。その後も中国からの入学希望者は止まるところを知らず、専門学校の他、大阪YWCA千里日本語学校(1990〜1993年)や、大阪YWCA日本語学校(1991〜1994年)でも受け入れた。
夏期集中クラス
日本語本科卒業式
当時日本語を学ぶ外国人学生の多くは、学費や生活費をアルバイトで賄いながらの苦学生であった。そこでYWCAでは奨学金委員会を組織し、会員・職員、企業や団体、個人篤志家からの寄付をもとに1988年から奨学金の支給を始め、1990年には「大阪YWCA外国人留学生奨学基金」を設置することができた。
大阪YWCAの日本語教育を支える屋台骨は、1969年開講の「日本語教師養成講座」である。英語が話せないため、地域に溶け込めずにいる海外駐在の日本人妻たちの状況を何とかしたいという、ある会員の願いで生まれた講座であるが、教育内容の充実をはかりながら、1985年には、文部省の「日本語教員の養成」の報告書で示された420時間の学習内容に添った本格的な講座として高い評価を得ている。
1977年には、日本語教師養成の実績を知った大阪府からの依頼で、「中国帰国者のための日本語教室」(中国残留邦人の支援事業の項を参照)を開講している。
また、毎年講座から送り出される多くの修了生の活躍の場の提供のため、またより質の高い日本語教師を養成するために1989年、「日本語教師会」が設立された。日本語教師の職場の開拓、教材やカリキュラムの開発、教師のトレーニング等を主な仕事とし、日本語教師養成講座と連携して、大阪YWCAの日本語教育の充実をはかっている。
1995年1月17日未明に発生した大地震は、阪神地方に未曾有の被害をもたらし、長きにわたって苦しめた。幸い建物にさしたる被害を受けなかった大阪YWCAは、翌日からすさまじい救援活動に突入することになる。特に、激震地にあって、建物に損傷を受けつつ救護所としての役割を担った神戸YWCAを支えるため、全国から送られる救援物資を現地に届けることが大きな使命となった。交通が途絶えた中、多くの会員が有馬方面から六甲を越えて神戸に入った。
仮設住宅での交流会
東日本大震災 街頭募金
保養プログラム「大阪わいわいステイ」
震災から3日後には、あるアメリカ人心理学者から、地震後の「心のケア」について専門家のための緊急集会開催の申し出があり、急遽セミナーを開催。すでに救援物資やボランティアが集まり始め、救援活動の拠点として機能し始めていた大阪YWCAは、「聴くことから始まる~心サバイバル・ネットワーク」の構想を練り上げ(のちに「心のケア・ネットワーク」と名前を変えて)、4年にわたる活動の幕開けとなった。活動方針の策定、組織作り、現地活動拠点の確保、ボランティアの募集、人的資源の確保など、必要な準備が急ピッチで進められ、実に地震発生10日後には、約80名のボランティアを現地に送り込んだ。
YWCAにとって何よりも幸運だったことは、この活動にいち早くマスコミが注目し、報道されたことにより、何人もの専門家から応援の手がさしのべられたことであった。今では、中学生でも口にするようになった「トラウマ」や「PTSD」といった言葉も当時はまだまだ一般的ではなく、スタッフもボランティアも学びながらの取り組みであった。そして、一連の救援活動は、大阪YWCAの通常業務と並行して進められたため、当時の理事長を初めとする会員も、ボランティア応募の電話をとり、資料を作成し、YWCAの小さな事務室は、気が遠くなるほどの混乱ぶりであった。しかし、この救援活動の中で、多くのことを学んだ。「YWCAは、誰のために何をするのか」という根源的な問いを常に発することと、必要な活動を実現させていくためにはどうしたらよいか、という問題解決への意欲が、会員・職員の心を一つにし、活動を進めるための原動力になった。
救援活動の中で出会った専門家の助言やサポートもあって、活動の核となる会員のトレーニング、新たなボランティアの募集と研修など約半年の準備期間の後、1996年4月全国で始めてのボランティアによる被害者のための電話相談室「大阪被害者相談室」がスタートした。その後、2002年NPO法人格を取得し、大阪被害者支援アドボカシーセンターと名称変更し、幅広い活動を展開している。
東日本大震災では日本YWCA主導のもと、震災直後よりボランティアコーディネーターを派遣。2011年8月より年2回のペースで福島の子どもたちを大阪に招待し、のびのび遊んでもらう保養プログラム「大阪わいわいステイ」を現在も継続して行っている。
DVへの取り組みの源流は1995年阪神淡路大震災直後立ち上げた「こころのケア・ネットワーク」、1996年開設の「大阪被害者相談室」にある。これらの活動を通して、被害者に寄り添う支援の大切さを痛感。1999年「女性への暴力」被害者のためのサポーター養成事業(文部省委嘱)を3年にわたって実施した。「女性への暴力」に対する社会の認識や理解が深まり、問題解決への働きかけの一助になることを願った。また、主催者自身が自分と出会い他者と出会ながらネットワークしていくものであることを体感させられた。2000年日本YWCA全国総会で「女性への暴力の問題に取り組む」が運動の課題として掲げられ、「私たちの問題『女性への暴力』プロジェクト」が設置された。各地域YWCAの取り組みを分かち合い、DV被害者の自立を支援するステップハウスの必要性が話し合われ、2002年日本YWCA主催のアメリカシェルター訪問ツァーに大阪YWCAから3名参加、同年DV被害者のためのサポートグループとカウンセリングを、2004年にはDV家庭の子ども支援者の養成を開始し、8月新規事業としてステップハウス開設を決定し、2005年11月DV被害からの回復と自立をサポートするステップハウス(中長期自立支援施設)を開設した。
ステップハウス居室
ステップハウス リビング
実態を伝える講演会と写真展
YWCAは創立以来、祈りと奉仕をベースに心の豊かさ、人間関係の暖かさを大切にしてきた。そして、すべての人の人権・正義・平和の実現をめざす社会づくりのために、具体的かつ実践的な活動を地道に重ねてきた。ステップハウス※もその一つとして、安心・信頼できる場、DV被害からの回復と自立に寄り添う場として、被害当事者から学び、自己決定を大切にした健康的なサポート体制を構築していきたい。
∗ステップハウス ドメスティック・バイオレンス(DV)の被害にあった女性とその子どものための中長期自立支援施設。公共機関や民間シェルターなどの緊急一時保護施設に避難をした後の自立支援を行う。本格的な自立をするために、住居や就労の準備をしながら、敷金・権利金なしで6ヶ月間入居できる施設。 DV被害当事者と支援者の安全のため、ステップハウスの場所は非公開になっている。